yawaraka33のブログ

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2014年 東京新聞より 第三の敗戦(下)心の廃墟からの復興 大人も正義感を持て

やわらか萩
2014年11月15日(土) 東京新聞 朝刊 こころ 上田紀行

「第三の敗戦」 下  心の廃墟からの復興 大人も正義感持て

 「使い捨て」という言葉が流行した2006年、私は日本の「第三の敗戦」を実感した。教えている大学の講義で二十歳の学生200人の半分が 「人間は使い捨てだ」に手を挙げる。9割の学生が自分の会社の工場の有毒廃液のために一般市民が死んでも、自分の保身のためにその事実を隠蔽(いんぺい)するという。そんな社会はとうに終わっている。その責任はそんな日本社会を子どもたちに見せ続けた私たち大人にある。
 その敗戦からの復興はいかになされるべきなのか。私は講演やセミナー、そして著作でと、微力ながら全力で立ち向かった。講演やセミナーで話を聞いてくれた人は深く感じ入ってくれる。著書の読者からは熱い反応がある。しかし「敗戦」をもたらしたのは社会の総体であり、時代の趨勢(すうせい)である。その前で自分の力不足を感じざるを得なかった。

 しかしその流れを変える大きな出来事が起こった。東日本大震災と福島第一原発事故である。震災後3カ月の11年6月、私は200人の学生に同じ質問をしてみた。君が派遣された東南アジアの工場の有毒廃液のために下流で一般市民が死んでいる。君は上司から事実の隠蔽を命じられた。どうするか。
 1、「自分の名前を出して内部告発する」が30人。2、「匿名で情報をリークする」が100人。3、「何もしない」が70人だった。06年のそれぞれ3人、15人、180人から、大逆転が起こった。
 その1年後、私は揺り戻しが起こっているのでは、とドキドキしながら同じ質問をした。結果は、50人、120人、30人であった。情報の隠蔽は許されないという姿勢が学生にますます広がってきたのである。
 それは明らかに福島第一原発事故の影響である。原発には危険性があるということを知りながら、意図的に隠蔽する、あるいは保身のために言い出せないという、まさに06年の学生たちが選んだ態度が原発の周辺には蔓延(まんえん)していた。その過ちによりどれだけ巨大な災厄がもたらされたか。それを目の当たりにした学生は、もはや情報の隠蔽を選ばなかった。自分の保身よりも社会正義を選ぶという選択が大多数となったのである。

 また東日本大震災の被災地の救援に携わった多くの人々の姿が若者たちの意識を変えたことも見逃せない。自衛隊員から行政の人々、数多くのNPOやボランティアたちが被災者のために行動している姿は、この社会にもまだまだ困窮している人を救う力があるのだということを私たちに実感させた。この社会にはまだ「支え」があるのだということを、私たちは改めて認識させられたのである。

 困窮している人を誰かが救おうとしているとき、救われているのは困窮している人たちだけではない。その姿を見て育つ子どもたちもまた救われている。人間は使い捨てなんかではない、あなたも人生で苦しむことがあっても、そこには必ず救いがある。そして正義感に燃えて間違ったことを間違っていると言って、一部の人からは非難されることはあっても、社会全体は必ずあなたの勇気と正義感を褒めたたえるだろう。そうしたメッセージがどれだけ若者たちを励ますことだろう。

 そしてそのことに励まされるのは若者たちだけではない。私たち大人世代にとってもそれは大きな支えとなるだろう。12年後の26年には、その年の出生者77万人に対して死亡者155万人と、誕生祝いの2倍の葬式を出す社会が私たちを待ち構えている。もちろん全てのお年寄りがぽっくりと逝くわけではなく、多くは病を得て長期のケアが必要だ。その状況で「人間は使い捨てだ」という思想が蔓延していたとき、何が起こるだろうか。
 若者たちに芽生えた支えと社会正義への思い、それを大人社会がまたつぶしてしまうようなことが起これば、その報いを受けるのはまさに年長世代の私たちにほかならない。それは誰もが幸福になることができない、不幸の連鎖の悪循環である。

 問われているのは年長世代の勇気ある行動である。自分の保身に汲々(きゅうきゅう)とする姿ではなく、社会の困窮に立ち向かい、良き未来を創り出そうとする気概ある姿をどれだけ若い世代に見せることができるか。「第三の敗戦」に導いたのが私たちならば、そこからの復興もまた私たちの責務である。焼け野原と化した街をかつて復興させたように、私たちは心の焼け野原の風景を今こそ描きかえていかなければならないのだ。
 
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前回の記事より時間が大分経ってしまいました。
一応区切りをつけないとと思い、「下」を書きます。

心の荒廃はその後6年経ちどうなっているのかと、憂いが起こります。
何故なら、一部の人を除き?テレビなどで見る世界のコロナに関する報道は目に余るものがあります。
マスクをしたくないとデモをする、自由(自分勝手)を守りたいなどと言い募り、
その片方では医療崩壊が起き、死者が多数出ているにも拘らず、遊びたいからと?
マスクをしたくない自由って、自由の意味が違いませんか?

いくら言っても無駄のような気がしてきました。
こうして、人類は滅びて行くのではないのだろうかと、
上田さんの努力を感心しながらも、果たして成果は出るのだろうかと暗澹たる思いなのが残念です。